ブログで紹介した「嵐を呼ぶ男NOBUNAGA」という作品の中に生駒氏の娘で類(るい)という魅力的な女性が登場します。
男まさりの激しい気性で信長をうつけと呼び、口汚く罵ったりするけど実は信長に惚れていて、物語の後半では生死もわからず行方不明になってしまう正室帰蝶に替わって後妻として迎えられます。
この女性は大河ドラマなんかでは吉乃という名前で出てくる事が多くて、あまり類という名前では出てこないです。
1992年の大河ドラマでは信長の母親の土田御前が「るい」と呼ばれて、吉乃は「しの」と呼ばれていたようです。
類は後に信長の嫡男の信忠、次男の信雄、長女の五徳の三人の子供を生みますが、産後のひだちが悪く年齢はハッキリとはわからないのですが、1566年に小牧城で亡くなります。
愛知県江南市は類の実家である生駒家の城の小折城があった場所なので今でも所縁の場所がいくつも残っています。
生駒家は江戸時代には尾張徳川家につかえていたので生駒家所縁の場所もたくさんあるのですが今回は小説に登場した類とその兄である生駒家長に関するものに絞って行ってきました。
まずは生駒家の菩提所で類と家長の墓碑がある久昌寺です。
今は古い住宅街の中にひっそりとあるといった印象ですが、昔はかなり大きな寺院だったようですね。
裏手には公園も整備されていて駐車場やトイレもあって、周辺の案内図もありますしこちらに車をとめて、歩いて史跡巡りをすると便利です。
この公園の横が生駒家の墓地になっていて、類と家長の墓碑もここにありました。
立派な墓碑が林立しているような状態で、かなり壮観です❗
この林立する墓碑の一番奥に類、そして生駒家初代から向かって左へ四代目が家長です。
久昌寺から歩いて200メートルほどにある幼稚園の一角に類や家長が住み、信長が足繁く訪れて、おそらく若き日の豊臣秀吉もいたであろう小折城(生駒屋敷)があります。
とはいっても今は説明板と記念碑があるだけで他に偲ぶようなものは見られませんが。
小説の中では、「広大な敷地の周囲には深い堀がめぐらされ、土塁と竹垣によって守られた砦の体を成していた。いや、もはや城と呼んでも差し支えないほどだ」と描写されていて、当時はそれなりの規模だったのでしょう。
生駒屋敷跡から生駒家所縁の神社や寺を横目で見ながら10分ほど歩いた、ひばりがさえずるのどかで広い畑地の一角に生駒家長夫妻の墓碑がある宝頂山墓地があります。
この辺りも今は畑となって見る影もありませんが、かつては生駒家の建物が存在していたとのこと。
月日の流れを感じさせます。
最後の類所縁の地は車だと5分もかからないのですが歩くと少し遠いと感じたので久昌寺の駐車場を離れて車で移動しました。
吉乃の方荼毘地(経塚)です。
今は田代墓地という一般の墓地になっていますが、駐車場もあってよかったです。
ここは小牧城で亡くなった類を荼毘にふした場所と伝わっています。
この石碑に彫られた観音様は小牧山の方向を向いていて、信長と類の絆の深さを感じさせます。
供養のために植えられたという彼岸桜が花びらを散らしていて命の儚さを感じさせました。
ちなみにこの桜は1992年に大河ドラマ信長で「しの」を演じた女優の高木美保さんが参拝に訪れた時に「吉乃桜」と命名されたそうです。
今回はお類さんに絞って所縁の地を巡りましたが、愛知県江南市は他にも森蘭丸の父である森可成や秀吉の重臣の前野長康、それに後に国宝松江城を建てる堀尾吉晴などの所縁の場所もあるようなのでまたあらためて来てみたいと思います。