コロナウイルス感染防止のため出された愛知県の緊急事態宣言もようやく解除となり、食料品の買い出し以外の目的で久しぶりに外出しようと思い立ち、中川区にある荒子城跡に行きました🎵
今は神社になっていますが、この冨士権現天満宮は荒子城の城内に元々あったものだということで、利家やまつも拝んでいたのだと思うと感慨深いです。
この荒子城でのエピソードがいくつも伝わっているようなのでそれを紹介したいと思います。これらのエピソードを知れば荒子城跡に来たときの感慨も更に深くなることでしょう。
1,前田利家と妻のまつが出会った
前田利家は天文六年(1537)に荒子城で誕生したとされています。天文二十年(1551)に織田信長に仕えるために那古野城へ行くまで荒子で過ごしました。
まつは利家の母の姉の娘で、4歳の時に母親の再婚の影響で叔母が住む荒子城に引き取られて来たようです。
利家14歳、まつ4歳で10歳の歳の差です。この時はまさか将来二人が結婚することになろうとは本人同士も知るよしもなかったでしょう。
まつが破魔矢をいたずらして利家に叱られたという微笑ましい話が伝わっているそうです😊
2,利家が荒子城を兄から引き継いだ時の話
永禄十二年(1569)前田家の跡目相続問題が浮上。
前田家の家督を継いでいた利家の長兄利久が嫁の連れ子の慶次を入婿として家督を継がせようとしたことに織田信長が介入しました。
他家に継がせるくらいなら利家に継がせよということで、四男の利家が家督を継いで荒子城主になることに。
これに納得できない兄嫁である前田慶次の母親は腹の虫がおさまらず「この城に入る者に禍(わざわい)あれ」と呪いをかけて出ていったということです。
ちなみに利家とまつは後にこの兄嫁と和解して、それ以降は二人のよき相談相手になったということです。めでたしめでたし🎵
こうして兄利久夫婦が城を出て、いざ利家が入城しようとしたときに留守を預かっていた奥村永福が入城を拒否するという出来事がありました。
奥村は「主人の利久の命令がなければ開門出来ない」と主張。
利家が信長の朱印状を見せてもそれは我が主人のものではないと言って承知しなかったとか。
利久に急使をやって誓詞を貰ってきてようやく入城出来たそうです。奥村永福は利久と共に去りましたが、後に利家に仕えて佐々成政との末森城の戦いで大活躍しています。
3,兄利久の悪口を言う同僚に利家が怒る
いろいろなことがありながら何とか荒子城に入城を果たした利家の所に同僚の柴田勝家、森三左衛門、佐々成政などがお祝いに訪れたときの事。
同僚たちが利家の武勇を褒め称えて、利家が家督を継ぐのは当然だと言い始めました。
兄の利久は病弱でたいした武勇もないと言ってけなし始めたので、利家は憤然として「兄の悪口を言うのはやめてもらいたい!」と怒り、同僚たちは皆思わずうつむいたということです。
みんなが言っていることは間違っていないとはいえ、やはり他人から身内の悪口を言われるのは我慢ならなかったのでしょう。
そこに居合わせた同僚たちは改めて利家の人柄に惚れ、後にその事を聞いた織田信長もその男気に感動してますます信頼感を強めたということです。
荒子城跡を訪れた時にはぜひこれらのエピソードを思い出して下さい😌