十四条の戦いの古戦場から数キロのところ、大通りから少し入ったところに円長寺というお寺がありますが、この円長寺の辺りがかつての軽海西城があった場所だそうです。
いつ、誰が築城したのかは不明のようですが、稲葉氏が数世代に渡って居城としていました。
斎藤道三も一時期在城していたという話も伝わっていますが、年代的にいって父親の松波庄五郎ではないかということです。
永禄三年(1560)に池田恒興の家老の片桐俊元が修築し居城にしたようです。永禄三年と言えば桶狭間の戦いがあった年なので今川義元との攻防の最中でも着々と美濃攻略の準備をしていたということでしょうか?
永禄四年(1561)5月に起こった軽海の戦いでは真木村牛介と、稲葉又右門という名のある武将を討ち取るなどして織田勢が勝利し、美濃攻略にまた一歩近づきました。
この戦いでは稲葉又右門を池田恒興と佐々成政が二人がかりで討ち取ったという話がありますが、池田恒興ではなく前田利家と佐々成政だという話もあります。
ライバル同士の前田利家と佐々成政は、稲葉又右門を討ち取った後にお互いにお前の手柄だと譲り合って、柴田勝家に両方の手柄であると仲裁され、三人は織田信長からあっぱれと賞賛されたとのこと。
前田利家押しの自分としてはこのエピソードがとても爽やかで気持ち良くて好きです。
軽海西城は豊臣秀吉の天下統一がなった後に廃城となった模様ですが、土塁や堀などの遺構が今でもよく残っていて貴重な文化資料となっています。