愛知県一宮市北部に位置する木曾川町にある黒田城跡に行きました。このあたりの住所は黒田字古城となっていて、まさにかつてここにお城があったということを物語っています。
ここは土佐24万石の初代藩主となり、司馬遼太郎の小説「功名が辻」で有名な山内一豊が生まれた城ということが理由なのかわかりませんが昭和48年に一宮市指定の史跡になっています。
山内一豊は天文14年(1545)に、この城の城代をしていた山内盛豊の三男として黒田城で誕生したそうです。
ちなみに山内一豊の生誕地はこの黒田城のほかにも一宮市の南東部に隣接する岩倉市にある、岩倉城跡からほど近い神明生田神社にもあるので諸説あるようです。
解説板によると黒田城は戦国時代の初めころの明応年間(1492~1500)に相模の国からやってきた五藤源太左衛門光正という人が居館を築いたのが始まりということですが、この人物がなぜはるばる今の神奈川県あたりからやってきてこの地に館を築いたのか僕がネットで調べて限りではわかりませんでした。
何で相模の国からわざわざやってきたのか?
誰かから土地を与えられて治めるためにやってきたのか、それとも乱世のどさくさに紛れてここに流れてきて奪い取ったのか、そのあたりのことも知りたいところです。
この辺りは当時は鎌倉から京都に続く街道沿いだということで戦略的にも重要な場所だったようで織田信長の尾張統一の過程で岩倉織田家とこの城をめぐって争いが起きたということです。
当時は山内一豊の父親の盛豊が岩倉織田家の家老をしていて黒田城を任されていたのですが、1557年に夜討ちにあい一豊の兄とともに殺されてしまい、まだ子供だった一豊は母や弟、妹たちと城を脱出してかろうじて生き延びたとのこと。
その後も信長の天下統一が事業が進むにつれて経済圏も広がり、すぐ近くを流れる木曾川を渡れば美濃の国ということで人の往来も活発だったであろうことは想像に難くないのでますます重要な拠点として、数々の武将が城主を務めました。
1584年に起きた小牧長久手の戦いでも織田・徳川連合軍側の重要な拠点となりました。
その後豊臣秀吉が天下を統一すると一柳直盛という武将が黒田城に入城した時に大改修が行われたそうですが、江戸時代には、はっきりとした時期は分かりませんが廃城になりました。
現在は開発が進み、残念ながら遺構は残っていません。黒田小学校のグランドに隣接する形で休憩所が設けられた一角にかつてここに城があったことを示す解説板と碑、山内一豊の銅像があります。
目の前をJR東海道線が走っていてひっきりなしに電車が通り、遮断機の音や電車の音でやかましいほどです。広い道路や駐車場もないので車だと行きにくいです。
JR木曾川駅を利用するか自転車やバイクで行くことをお勧めします。