国宝松江城を築城した戦国武将堀尾吉晴の生涯を描いた小説「戦国はるかなれど」を読んで彼に興味を持ったので、自宅から比較的に近いゆかりの地を巡ってきました。
愛知県大口町にある八剱社一帯は、戦国時代には御供所城(ごごしょじょう)というお城があったところで、この付近に堀尾氏累代の邸宅があったそうです。
現在では南側は立派な社殿がある神社となっていて、北側の五条川が流れるあたりは歴史公園として整備されています。
神社の東側には石碑や解説板、銅像が立っていて、堀尾吉晴ゆかりの場所なのだと教えてくれます。
境内の南側には水が流れて鯉などが泳ぐ溝があるのですが、これが当時の館の堀の名残だと考えられています。
銅像は堀尾吉晴の一族である金助という少年とその母親で、豊臣秀吉の天下統一の最終段階である小田原征伐に従軍している堀尾一族の出世頭で当時は佐和山城主だった堀尾吉晴の軍に加わるために出発するところです。
その後、金助は小田原の陣中で戦死し、嘆き悲しんだ母が息子の冥福を祈るために、彼を見送った裁断橋という橋を修復して擬宝珠に息子への思いを文章にして刻んだそうです。
その文章が女性の三大名文の一つに数えられ、金助と母親の悲劇は裁断橋物語として語り継がれているということを初めて知りました。
「戦国はるかなれど」では金助は堀尾吉晴の長男ということになっていて、小田原で初陣を果たすも陣中で病を発症して亡くなってしまうというふうに描かれていて、正室の俊が金助を見送るシーンも淡々と描かれていて、作品の最後の最後に少し書かれている程度でそれほど大きく触れられてはいなかったので、印象に残っていませんでした。
実際には金助が吉晴の息子なのか親戚なのか、戦死なのか病死なのかは諸説あってはっきりしないようです。
八剱社と国道を挟んで東隣には桂林禅寺という立派なお寺があり、こちらには堀尾吉晴、金助とその母の供養塔があります。
八剱社の南側にある堀尾跡公園は堀尾一族を偲ぶための歴史公園として整備されています。
金助の母が修復したという熱田神宮の正面を流れていて、今は埋め立てられてしまった精進川に掛けられていた裁断橋が五条川に再現されていたり、公園のいたるところに裁断橋物語や堀尾一族に関する解説板があって勉強になります。
この公園は夏の水遊びや紅葉も楽しむことができたり、五条川は日本の桜の名所100選にも選ばれるほど桜並木が美しいところなので四季折々で楽しむことができます。
紅葉や桜の時期にはまた訪れて堀尾吉晴を偲んでみようかと思いました。