いつ、だれが、何の目的でここに城を築いたのかは伝わっていないようですが、明応年間(1492~1500)には既に存在していたようです。
現在は小学校になっていて遺構も残っていない城ですが、当時は規模が大きく、二重の堀に囲まれていたとのこと。
付近には字城堀とか、西郭などの地名が残っていて、かつてここに城があった痕跡がうかがえます。
一番有名な城主は織田信長の弟の信治ですが、宇佐山城の戦いで浅井・朝倉連合軍の攻撃を受けて戦死したということです。
その後、津田元嘉という武将が城主を務めますがこの人も本能寺の変で信長の嫡男である織田信忠とともに討ち死にしました。
江戸時代には尾張徳川家の家臣の屋敷になっていたようですが、現在では開発されて遺構もなく、小学校の敷地になっています。
解説板や石碑も小学校の校門から見える位置にありますが、勝手に入るわけにもいかず敷地の外から眺めるにとどめました。