徳川家康が誕生した城である岡崎城は明治時代の廃城令によって天守閣をはじめ建物はすべて取り壊されてしまったために文化財的な価値はほとんどないのですが、石垣と曲輪に関しては中世の城の構造をよく残しているそうです。
岡崎市は茨城県真壁町、香川県高松市庵治町と並んで日本三大石の産地ということで、石垣はほぼすべて地元の花崗岩でできていて、野面積み、打ち込み接ぎ、切込接ぎと各時代の積み方を見ることができます。
曲輪に関しては城の中心部の曲輪は、本丸は不整形で、それを取り巻く持仏堂、風呂谷、隠居など、変わった名がつけられている曲輪は丸く湾曲した形をし、中世の城の構造をよく残しながら拡大されている複雑な縄張りだったそうです。
解説によると持仏堂曲輪は日本中で最も厳しい防御の構造をしていました。
ベンチの向こう側にあるのが岡崎城で最初に掘られた本丸北の空堀で、「青海堀」です。
埋まった部分も合わせると深さは9メートル以上あるそうです。きれいに湾曲していて苔の緑に覆われた石垣が高く積まれていて、見ていても美しいです。
持仏堂曲輪には天守の廊下跡というのがあって、城主が城から脱出する際に使うもので、堀にかけられた橋の上に櫓などを建てたものです。
本丸天守と外側の曲輪が直接つながった日本唯一のもので、今は明治から大正にかけて積んだ石橋がかかっています。
石垣もとても美しくて、特に風呂谷門や坂谷曲輪の下の石垣が美しく感じました。
天守台の石垣は岡崎城に初めて天守を建てた田中吉政のころのものです。
後から知ったのですがこの横に回ると大きな鏡石があるそうです。残念!
岡崎城の下を流れる乙川の堤防には菅生川端石垣があって、切れ目のない直線的な石垣城壁としては日本最長級。
菅生川端石垣と岡崎城です。