西の丸御蔵城宝館を見学した後は、もう、何度も来てるけど、秋晴れのいい天気だし、せっかくなので名古屋城内を散策することにしました。
現在名古屋場内はあちらこちらで工事が行われており、立ち入り禁止の区域も多くて、前は通れたところが通れなかったりして、ぐるっと一周することができません。
天守閣は耐震性の問題や、木造復元の工事の準備で閉館中だし、その天守閣の復元のための土台の調査で石垣がはがされたり復元されたりで景観的に興ざめしてしまうところもありますが、シンボルの金の鯱が秋の西日に照らされて鮮やかに輝いていました。
名古屋城は徳川家康の命令で全国の大名たちを動員してその技術と財力を結集して建てられた天下普請の城なので、本当に何もかもスケールが大きくて、何度訪れてもその存在感に圧倒されます。
まずは西の丸御蔵城宝館を出て本丸への入り口である本丸表二之門にむかいます。
途中、西之丸から西南隅櫓越しの天守閣が有名な映えスポットなのでまずはここで写真をパシャリ。
抜けるような秋の青空をバックに、西日に輝く金鯱と銅瓦の緑色がとても美しいです。
正門から本丸表二之門まで向かう通りにはイケメンの名古屋おもてなし武将隊の面々が立っていて、ツーショットで写真を撮りたいと希望する女性たちが行列を作っていました。
門をくぐって本丸に入ってみると、なんとこの日は普段公開されていない西南、東南両方の隅櫓の中を見学できるとのことでしたが、あと10分で見学終了ということで諦めました。
知っていればもっと早く来たのに!
西南隅櫓は以前一度入ったことがあるのですが、東南隅櫓はまだ入ったことがないので残念です。
本丸御殿から西南隅櫓に向かう途中の本丸御殿越しの小天守と天守閣も映えスポットなのでここでまたパシャリ。
来た道を戻って天守閣のほうへ歩いていくと、現在閉鎖中の巨大な天守閣が目の前にドーンと立ちはだかります。
当初は2020年の東京オリンピックが開催されるまでに完成させるといっていたのですが、いろいろすったもんだがあって、いまだにめどが立たず復元工事は延び延びになっていますが、早く木造で復元された天守閣が見たいものです。
天守閣の下の台座の石垣は築城の名人加藤清正が担当したということですが、ところどころ石垣が黒ずんで丸くなっているところは昭和20年5月14日の空襲で炎上した時の熱でこのようになってしまったということです。
天守閣に背を向けて、東二之門に向かうと、そこには金鯱と並んで名古屋城のシンボル的存在である清正石があります。
実はこの辺りは加藤清正の担当エリアではなく、軍師官兵衛で有名な黒田官兵衛の息子、黒田長政が担当していたので本当は長政石のはずですが、石垣といえば加藤清正ということで、清正石と呼ばれているそうです。
清正石以外にも巨大な石はいくつも見られるので、やはり天下普請で築城された城だなと、スケールの大きさを感じます。
東二之門をくぐって二之丸広場に出て、二之丸庭園を横目に見ながら東南隅櫓が見えるほうに向かっていくと清正公石曳きの像というのがあります。
名古屋城は天下普請の城なので、熊本城のように加藤清正一人で建てたわけでもないのにやたらと清正を前面に出してくるのが解せませんが、やはり、地元名古屋市中村区の出身ということでこういうことになっているのでしょうか?
徳川家康の命令で建てたのだから、家康の銅像を建てるとか、初代藩主の義直の像を建てるのが筋だと思うのですが。
再び西之丸に出て西南隅櫓を右手に見つつ城の北側にある御深井丸方向へ。
こちらはお堀をはさんで天守閣の西側を間近に見上げることができます。
夕方なので、屋根の上にはカラスの群れが。
ここから見る天守閣の台座の石垣のアーチが熊本城によく似ていて、加藤清正の築城の特徴をよく表しているという人もいますが、僕にわかるのは壮大で美しいということだけです。
天守閣の北側へ回ると不明門という門があり、ここから見える石垣の一つに「加藤肥後守内小代下総」という刻印がみられるのは有名な話です。
ちなみに不明門の台座の石垣は前田利家の息子の前田利長が担当していて写真の櫛団子のような刻印は前田家のものだとの証だそうです。
加賀100万石の財力のおかげで利長が担当した石垣も場内のあちこちにあるということなのですが、同じ名古屋市中川区荒子で生まれているのに加藤清正のように銅像も建ててもらえずかわいそうです。
この先は立ち入り禁止区域になっているのでUターンです。
御深井丸には天守閣の礎石や出雲の国から送られてきたという謎の古墳の石棺が置いてあります。
この辺りで17時の閉館時間が迫っていたので急いで正門出口に向かい、正門横にある金の鯱をパシャリ。
ここで17時の閉館時間となったので正門の外へ。
今度はもう少し時間に余裕を持って訪れてみようと思います。