岐阜城のある金華山の下には岐阜公園があり、今では歴史博物館や美術館、昆虫博物館といった施設が立ち並び、金華山に上るロープウェーの駅や土産物売り場があったりしますが、ここにはかつて、斎藤道三や織田信長の居館があった場所でもあります。
今、岐阜公園は「信長公の鼓動が聞こえる歴史公園」として再整備が進められていて、2006年には「日本の歴史公園100選」にも選ばれています。
岐阜公園の入り口にはさっそく織田信長の馬に乗った巨大な銅像があり、「若き日の信長像」と名付けられています。
公園内には「信長の庭」と名付けられた美しい日本庭園があり、今はちょうど紅葉が見ごろを迎えていて、赤く染まったモミジの葉が池の水に反射してとてもきれいでした。
ロープウェーの駅の手前には後に土佐藩初代藩主となった山内一豊が出世のきっかけをつかんだ妻の千代との有名なエピソードが書かれた碑があります。
このエピソードは小牧での話だと思い込んでいたのでこんなところに碑があってびっくりしました。
山内一豊と千代の碑を通り過ぎて南方向に歩いていくと左手に冠木門があり、これが信長の居館跡への入り口です。
信長の居館跡は発掘調査が進んでいて金箔瓦や庭園の跡が発見されています。
2本の滝が流れ落ちる仕掛けもあったんだとか。
信長の居館跡を正面に見て左手には朱塗りが鮮やかで美しい三重塔があります。
大正天皇の御大典(即位の礼)を記念して1916年5月に建立されました。
信長の居館跡を後にして冠木門から外に出るとすぐ近くには板垣退助の銅像があります。
1882年4月6日、当時この場所には中教院という施設があり、ここで演説を終えて出てきた板垣退助は暴漢に襲われ、有名な「板垣死すとも自由は死せず」という言葉が生まれました。
よくテレビの再現VTRでは演説中に暴漢が舞台に上がってきて刺されるといったシーンが流されていると思うのですが、実際には演説を終えて建物から出てきたところを襲われたのですね。
信長の居館跡や板垣退助の銅像とは逆方向、公園の北側には御手洗の滝という美しい滝があり、この滝が流れ落ちる池には関ヶ原の戦いの前哨戦で西軍側についた当時の岐阜城の城主であった信長の孫の織田秀信が籠城し、東軍の福島正則らと戦った時に落城し、大勢の奥女中たちが刺し違えたり身を投げたりして亡くなった場所なんだとか。
今は日中友好庭園とかちびっこが遊ぶ施設があり、のどかな雰囲気を醸し出していて、そんな悲しい出来事があった場所とは思えません。
このように、戦国時代から明治大正時代までの歴史を楽しめる岐阜公園は自然も豊かでバードウオッチングや桜や紅葉といった季節の植物をめでるために訪れる人も多く、いろんな角度から楽しむことができます。
また季節の変わり目や何かのイベントがあるときは訪れたいと思います。