現在、真宗大谷派名古屋別院が建っている場所は、戦国時代には古渡城というお城が存在していました。
天文3年(1534)に織田信長の父信秀が築城しました。
信長は13歳の時にこの古渡城で元服して三郎信長と名乗るようになります。
織田信秀は天文15年(1546)に末森城に移ったために古渡城は廃城になりました。
現在建っている真宗大谷派名古屋別院は尾張藩二代目藩主徳川光友の寄進によってこの地に建立されたということです。
現在の建物は昭和20年の大空襲で焼失した後に戦後再建された鉄筋コンクリート製のものですが、京都にある本山の東本願寺の建物に負けないくらい巨大な建造物だったので驚きました。
僕が訪れたときは境内でバザーのような門前市が開かれていて多くの人が訪れていたので大変にぎわっていました。
初めてやってきたので古渡城跡の碑がどこにあるのかもわからず、人波をかき分けながら探し回りました。
築城当時は東西140メートル、南北100メートルの四方を二重の堀で囲まれて広さは一万坪あったということですが、今では遺構などは残っていないようです。
織田信長はこの城で元服したということですが13歳の信長はどのような心境で元服式に臨んだのでしょうか?母の愛情は弟に注がれて自分はうつけ者と疎まれ、尾張国内はバラバラで、父の信秀が勢力を拡大しているとはいえまだまだ同族同士で争っているような状態です。
また、東には遠江、駿河、三河の三国を勢力下におく今川義元、北には美濃を治める斎藤道三がいて、常に圧迫を受けていて、とても晴れがましい気持ちというわけにはいかなかったのではないでしょうか?
のちの信長にとって最大最強の敵といっても過言ではない一向宗の後身である真宗大谷派の寺が、自分が元服した城の跡に建っているという現代の様子を信長はあの世からどのような気持ちで眺めているのでしょうか?
本人に直接会って聞いてみたいですね。