細かすぎて伝わらない城なので、いつ、だれが、何のために築城したのかは定かではありません。
織田信長に仕えた武藤弥兵衛という武将の居城だったとされています。
信長が越前を平定したときに敦賀郡代に任ぜられて敦賀に移ったとのこと。
それでこの城が廃城になってしまったのか、それともほかにだれかが代わりに入ったのかもわかりません。
現在、城の推定地には慶應寺という真宗大谷派の立派なお寺が建っていて、遺構なども残っていません。
解説板や石碑といったこの場所に城があったことを示すようなものもありません。
わずかに更屋敷などの地名がその痕跡を残すのみです。
それにしても、城主だった武藤弥兵衛は越前の平定に従軍したということは、柴田勝家らとともに越前や加賀の一向宗門徒たちとも激戦を繰り返していたと想像しますが、その居城の跡に、かつての敵だった一向宗の寺が建っているというのは歴史の皮肉ととるべきか、平和の象徴と解釈するべきかどっちでしょうね?