愛知県大口町にある堀尾跡公園から北へ車でわずか5分ほどの距離、江南市前野町というところに戦国武将前野長康ゆかりの地、前野屋敷跡があります。
前野長康は豊臣秀吉の最古参の家臣の一人で、まだ秀吉が木下藤吉郎と名乗っていたころから共に行動していた人物です。
伝説の墨俣一夜城の築城前から仕えていたというから相当古いです。
もっとも、この当時は秀吉はまだ織田信長の家臣になったばかりで長康は地元の有力者ということもあって立場が上で、秀吉に仕えているというよりは協力しているという感じだったかもしれませんが。
その後も秀吉とともに各地を転戦し、信長没後も小牧長久手の戦いや小田原征伐、朝鮮出兵にも加わりました。
同じく最古参の蜂須賀小六とは義兄弟の契りを交わしたほど絆が深い関係だったようですが、少し後に仕えるようになった堀尾吉晴とも関係が深く、三木城の包囲戦や安土城、聚楽第の築城の際にもともに仕事をした仲だったようです。
その活躍が認められて最終的には但馬出石13万石を与えられ、嫡男の景定と合わせると19万石の大名になりましたが、関白豊臣秀次の家老に抜擢されたのが運の尽きで、1595年に秀次が謀反の罪に問われると、嫡男ともども連座して自害しました。
「戦国はるかなれど」には、自害した前野長康のもとに真っ先に駆け付けたり、その後もお家断絶で浪人した家臣たちの再就職の斡旋など、生前世話になった長康のために力を尽くす堀尾吉晴の姿が描かれています。
前野屋敷跡は大きな通りに面したところに石碑やオブジェのようなものがあるだけで、案内板などもありませんが、なまこ壁のお屋敷の前にあるので比較的わかりやすいです。
ちなみにこのお屋敷にはいまも子孫の方が住まわれておられるんだとか。
かつてこの場所で前野長康、蜂須賀小六、のちに天下統一する若き日の豊臣秀吉が出入りしていたかと思うと感慨深いです。
墨俣城の築城作戦の段取りなどの相談もここで交わされていたのでしょうか?
蜂須賀小六や堀尾吉晴とともに大出世し、但馬出石13万石の大名になりながら悲劇的な結末を迎えてしまった前野長康ののことを思うと、人生の無常を感じずにはいられません。