愛知県岩倉市にある名鉄岩倉駅から歩いて10分程のところにあるのが岩倉城跡です。
近くに大きなアピタが建つ大通り沿いに油断していると見逃してしまうほどひっそりと今は石碑が建ってるだけで遺構なども残っていません。
しかし戦国時代には東西約104メートル、東西約169メートルの範囲に二重の堀をもつ城が築かれていました。
応仁文明の乱が尾張国にも波及し守護大名の斯波氏が衰退し、代わって守護代の織田氏が台頭。
その織田氏も嫡流の伊勢守家と庶流の大和守家に分裂して尾張国内を上四郡と下四郡に分割して統治しました。
伊勢守家当主の織田敏広は文明十一年(1479)物資の流通路のここ岩倉に城を築きました。
しかし庶流の大和守家に徐々に圧迫され岩倉城も大和守系織田氏のものとなりました。
しかし大和守系織田氏の家臣の三奉行の一つである織田弾正忠家が力をつけ三代目の織田信長が永禄二年(1559)3月に岩倉城を落城させて尾張を統一しました。
信長との決戦の直前には来るべき戦に備えて御殿の大屋根の上に二重の櫓が二つ増築され、天守閣の原初的な形態を持っていたそうです。
また、城の半径1キロを柵で囲んで総構えのような形にしていたとか。
岩倉城が織田信長に落とされた籠城戦には後に国宝松江城を築いた堀尾吉晴が城方として戦っていたそうです。
ちなみにこれが初陣で敵将の首一つをあげたそうです。
岩倉城の事や籠城戦に関しては小説「戦国はるかなれど~堀尾吉晴の生涯(上)」中村彰彦(光文社時代小説文庫)の第一章で描かれています。上巻だけでも700ページを超える大作ですが、よかったら読んでみて下さい。
ちなみに我らが前田利家は前年の永禄元年に岩倉織田家と戦った浮野の戦いでは敵の首一つをあげる手柄をたてましたが、岩倉城攻めの頃は捨阿弥斬殺事件を起こして織田家を出奔していたものと思われます。
堀尾吉晴も岩倉城落城後しばらく浪人生活をおくっていたとのことで前田利家と同時期に不遇の時を過ごしています。
しかし後に二人とも豊臣秀吉のもとで大出世を遂げるわけですからこの不遇の時代も決して無駄ではなかったのです。
不遇の時をどう過ごすかでその人の真価が問われるんだと、この二人の武将を見てつくづく感じました🎵