前回、岐阜関ケ原古戦場記念館を堪能したのですが、そのあと、実際に古戦場をめぐってみようと思ったら、天候が悪化して仕方なくあきらめたのが心残りだったので、現地の天気が良好なのをあらかじめ確認してリベンジしてきましました。
ネットの情報や現地のいろんなところにおいてあるチラシなどを見ると、古戦場を散策するためのモデルコースがいろいろあって、一人の武将に焦点を当てたものや、西軍、東軍に分けてめぐるものなど、テーマ別に何種類も掲載されています。
距離にしても1・2時間で巡ることができる数キロ程度のビギナークラスのものから5・6時間かけて20キロ近く歩くものまで様々です。
魅力的なものが多いのでいろいろ迷った挙句、今回僕が選んだのは、関ヶ原観光ガイドのサイトに掲載されていた「関ヶ原合戦西軍大好きコース」という、西軍を思いめぐる道をたどるコースです。
西軍の石田三成、大谷吉継、平塚為広などの武将をリスペクトしている僕としては、ぜひともめぐってみたい場所が含まれていることに加えて、距離が6キロ、所要時間は3時間ほどというのもちょうどいいかなと思い選びました。
- 岐阜関ケ原古戦場記念館 👇30分
- 決戦地 👇10分
- 島左近陣跡 👇10分
- 笹尾山・石田三成陣跡 👇30分
- 島津義弘陣跡 👇10分
- 開戦地 👇2分
- 北天満山・小西行長陣跡 👇8分
- 南天満山・宇喜多秀家陣跡 👇5分
- 藤古川ダム 👇5分
- 平塚為広碑 👇20分
- 大谷吉継墓、湯淺五助墓 👇5分
- 大谷吉継陣跡 👇10分
- 若宮八幡神社 👇35分
- 西首塚
なお、駅前でレンタサイクルを貸してもらえるし、各ポイントには無料駐車場もあるので車でも回れるし、実際車で廻っている人もたくさん見かけたのですが、車では見落としてしまうような思わぬ発見があったり、徒歩でないと入って行けない場所もあったので、健康増進のためにも歩いてめぐることをお勧めします。
1・岐阜関ケ原古戦場記念館
ほとんどのモデルコースはこの場所を起点に始まっているようなのでここから出発しました。
最新の技術を駆使した映像や音響で、もはやテーマパークのような素晴らしい博物館なので絶対に行ってほしいスポットですが、一週間前に入ったばかりなので今回は割愛しました。
2・決戦地
関ヶ原の戦いの最後の決着がついた場所です。小早川秀秋が裏切り、大谷吉継の軍を壊滅させて、東軍の大軍勢がこの場所に押し寄せてくる光景を笹尾山から石田三成はどのような気持ちで見たでしょうか?
今は記念碑や解説板、幟旗が建っています。
3・島左近陣跡
大きな幟旗がはためいているのが決戦地からも見えるのですぐにわかります。
石田三成の陣を守るように笹尾山のすぐ下に島左近の陣跡はありました。
僕は高校生の時に読んだ司馬遼太郎の小説「関ヶ原」で初めて島左近を知ったのですが、前半の主役のような存在で、強烈な印象を持ちました。
4・笹尾山・石田三成陣跡
山頂には展望台があって関ヶ原を一望することができます。
音声ガイド付きの地図や休憩できるベンチもあるので石田三成がここからどのような気持ちで戦況を見守っていたのかに思いを馳せることができます。
行ったときはスズメバチがブンブン飛んでいるところがあったので、近くに巣があるのかもしれません。秋はハチの巣が最大の大きさになる時期なので注意したほうがよさそうです。
5・島津義弘陣跡
島津義弘も参拝したという神明神社の裏手に隠れて気が付かず、いったん通り過ぎてしまいました。
モデルコースの所要時間は笹尾山から30分とありますが、自分の足で歩いてみると20分ほどでした。
それにしても、実際に来てみて感じたのですが、島津義弘の陣跡からは開戦地は徒歩10分、決戦地や、徳川家康の最後の陣地からも徒歩20分ほどしか離れておらず、開戦から決戦、そして有名な島津の退き口までずっと手を伸ばせば届きそうな距離で宇喜多勢や福島勢が激戦を繰り広げているのを傍観していたのかと思うと逆にすごいことだと感じました。
終盤には徳川家康の本隊30000万もの大軍勢が目の目に押し寄せてきているのを1500ほどしかいない自軍と共にどんな気持ちで義弘は眺めていたのでしょうか?
6・開戦地
この辺りで井伊直政と松平忠吉の部隊が宇喜多隊に発砲して戦いの火ぶたが切られたと解説にはありますが、目の前に実際にあるのは小西行長の陣跡で、宇喜多秀家の陣跡は南西の少し離れたところのあるので、これはどういうことなんだろうと思いました。
宇喜多隊は西軍最大の17000という大部隊だったということなので、小西隊の前まで展開していたということでしょうか?
7・小西行長陣跡
開戦地の奥が小西行長の陣跡です。
大河ドラマや小説などでは豊臣秀吉の朝鮮出兵をやめさせようと悩み、奔走する姿が描かれることが多く、いいイメージがありますが、関ヶ原の戦いはどういう思いで西軍に参加したんでしょうか?
島津や小早川のように傍観している武将が多い中、西軍の中では大いに奮戦したようですが。
8・南天満山・宇喜多秀家陣跡
道を間違えてちょっと迂回してしまったために少し離れている印象を持ってしまいました。
天満宮の神社の境内に陣跡があって、徒歩でないと入っていけません。
天満宮の境内に陣を置いたのは偶然だったのでしょうか?それとも愛する妻の豪姫の実家が菅原道真公の子孫を自称する前田家だからそれを意識してのことだろうかなどと考えてしまいました。
9・藤古川ダム
ここでハプニング発生です。
ダムに架かる橋を渡れば(徒歩でのみ通行可)最短距離で平塚為広碑に行けるはずが、ハチの巣があって危険なために通行止めになっているとのことで、いったん戻って大きく迂回する羽目になりました。
やはり、この時期はスズメバチやアシナガバチの巣が最大の大きさになる時期なので、山城や古戦場など自然が多く残っているところに出かけるときは注意が必要です。
10・平塚為広碑
大きく迂回して交通量の多い国道21号を歩いてたどり着きました。
昔、平塚為広を主人公に、竹中半兵衛や大谷吉継との友情を描いた「義槍鬼九郎」(朝霧圭梧)という小説を読んで感動した記憶があって、メジャーではありませんが平塚為広にはちょっとした思い入れがあるのでここにはぜひ来てみたかったです。
11・大谷吉継・湯淺五助墓
草も刈られていてよく整備された道ですが、舗装もされておらず、徒歩で行く以外に方法はない山道を登って行った先にありました。
地元の方々に大切にされているのがよくわかるきれいなお墓で、供えられたばかりと思われる花もありました。
戦前に建てられた顕彰碑もあり、大谷吉隆と刻まれてありますが、そう名乗っていたという説があったとのことですが、今では否定されているようです。
湯淺五助のエピソードは知らなかったのですが、五助の忠義の気持ちもですけど、五助との約束を守って、頑として家康に首が埋まっている場所を教えなかったという敵将の藤堂高刑にも感動しました。
12・大谷吉継陣跡
墓から再び山道を歩くこと5分、大谷吉継の陣跡が見えてきます。
吉継は裏切りる可能性のある小早川秀秋ににらみを利かせるためにこの場所に陣を張ったとのことですが、今では木が鬱蒼と生えていて、ここから松尾山を見ることはできません。
しかし、陣跡から少し歩いたところに松尾山を眺望できるポイントがあって、そこからは山頂の小早川の幟旗がよく見えました。
13・若宮八幡神社
車で来て大谷吉継の陣跡やお墓だけ見たい方はこの神社の駐車場に車を停めていくのが便利です。
国道21号から旧中山道にヒョイと入ってすぐのところにあります。
15・西首塚
蜂の巣のせいで大きく迂回したり山道を登ったり下りたりしたのでへとへとになりながらも最後の目的地に到着。
大型トラックがバンバン通る国道21号の道沿いにひっそりとたたずんでいました。
こちらも当時この辺りを支配していた竹中重門によって造られました。
前回訪れた東首塚は風化してしまったとのことですが、こちらは今でも残っているそうです。
解説板によると明治時代に付近を工事をした時には夥しい数の人骨が出てきたとのことです。
まとめ
西軍武将の陣跡を中心にまわったモデルコースの西軍大好きコースはすごくよかったです。
実際にその場所に行ってみて初めて味方や敵との距離感を実感できて、思っていたよりずいぶん近い距離で東西の軍勢が対峙していたのだと感じました。
特に島津軍は、わずか1500ほどの軍勢ですぐ目の前と言っていいほどの距離にいる30000人の徳川家康の本陣に向けて突撃していったのだと思うと、無謀としか思えませんでした。
実際、鹿児島まで生きてたどり着けたのはわずか80人ほどだったということです。
後に明治維新で薩摩が天下を取ったときもこの精神がその時まで受け継がれていて、太平洋戦争までつながったのかと、関係ないかもしれませんが、ふとそんなことまで考えてしまいました。
6キロほどの行程のはずが、大きく迂回したせいもあって万歩計を見ると20000歩10キロ以上歩いていましたが、電柱に豆知識やクイズが書いてあったり、旧中山道には不破の関守跡など、壬申の乱関係の史跡もあったりといい経験でした。
ほかにもいくつもモデルコースがあるのでまた別のテーマで来てみたいと思いました。