とっく~ブログ 

読んだ本の紹介をメインに、小説に出てきた聖地巡礼や、写真など

関ヶ原町散策のモデルコース 西軍大好きコース

前回、岐阜関ケ原古戦場記念館を堪能したのですが、そのあと、実際に古戦場をめぐってみようと思ったら、天候が悪化して仕方なくあきらめたのが心残りだったので、現地の天気が良好なのをあらかじめ確認してリベンジしてきましました。

 

ネットの情報や現地のいろんなところにおいてあるチラシなどを見ると、古戦場を散策するためのモデルコースがいろいろあって、一人の武将に焦点を当てたものや、西軍、東軍に分けてめぐるものなど、テーマ別に何種類も掲載されています。

 

距離にしても1・2時間で巡ることができる数キロ程度のビギナークラスのものから5・6時間かけて20キロ近く歩くものまで様々です。

 

魅力的なものが多いのでいろいろ迷った挙句、今回僕が選んだのは、関ヶ原観光ガイドのサイトに掲載されていた「関ヶ原合戦西軍大好きコース」という、西軍を思いめぐる道をたどるコースです。

 

西軍の石田三成大谷吉継、平塚為広などの武将をリスペクトしている僕としては、ぜひともめぐってみたい場所が含まれていることに加えて、距離が6キロ、所要時間は3時間ほどというのもちょうどいいかなと思い選びました。

 

  1. 岐阜関ケ原古戦場記念館  👇30分
  2. 決戦地          👇10分
  3. 島左近陣跡        👇10分
  4. 笹尾山・石田三成陣跡   👇30分
  5. 島津義弘陣跡       👇10分
  6. 開戦地          👇2分
  7. 北天満山・小西行長陣跡  👇8分
  8. 南天満山・宇喜多秀家陣跡 👇5分
  9. 藤古川ダム        👇5分
  10. 平塚為広碑        👇20分
  11. 大谷吉継墓、湯淺五助墓  👇5分
  12. 大谷吉継陣跡       👇10分
  13. 若宮八幡神社       👇35分
  14. 西首塚

なお、駅前でレンタサイクルを貸してもらえるし、各ポイントには無料駐車場もあるので車でも回れるし、実際車で廻っている人もたくさん見かけたのですが、車では見落としてしまうような思わぬ発見があったり、徒歩でないと入って行けない場所もあったので、健康増進のためにも歩いてめぐることをお勧めします。

 

1・岐阜関ケ原古戦場記念館

ほとんどのモデルコースはこの場所を起点に始まっているようなのでここから出発しました。

最新の技術を駆使した映像や音響で、もはやテーマパークのような素晴らしい博物館なので絶対に行ってほしいスポットですが、一週間前に入ったばかりなので今回は割愛しました。

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2・決戦地

関ヶ原の戦いの最後の決着がついた場所です。小早川秀秋が裏切り、大谷吉継の軍を壊滅させて、東軍の大軍勢がこの場所に押し寄せてくる光景を笹尾山から石田三成はどのような気持ちで見たでしょうか?

今は記念碑や解説板、幟旗が建っています。

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3・島左近陣跡

大きな幟旗がはためいているのが決戦地からも見えるのですぐにわかります。

石田三成の陣を守るように笹尾山のすぐ下に島左近の陣跡はありました。

僕は高校生の時に読んだ司馬遼太郎の小説「関ヶ原」で初めて島左近を知ったのですが、前半の主役のような存在で、強烈な印象を持ちました。

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4・笹尾山・石田三成陣跡

山頂には展望台があって関ヶ原を一望することができます。

音声ガイド付きの地図や休憩できるベンチもあるので石田三成がここからどのような気持ちで戦況を見守っていたのかに思いを馳せることができます。

行ったときはスズメバチがブンブン飛んでいるところがあったので、近くに巣があるのかもしれません。秋はハチの巣が最大の大きさになる時期なので注意したほうがよさそうです。

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5・島津義弘陣跡

島津義弘も参拝したという神明神社の裏手に隠れて気が付かず、いったん通り過ぎてしまいました。

モデルコースの所要時間は笹尾山から30分とありますが、自分の足で歩いてみると20分ほどでした。

それにしても、実際に来てみて感じたのですが、島津義弘の陣跡からは開戦地は徒歩10分、決戦地や、徳川家康の最後の陣地からも徒歩20分ほどしか離れておらず、開戦から決戦、そして有名な島津の退き口までずっと手を伸ばせば届きそうな距離で宇喜多勢や福島勢が激戦を繰り広げているのを傍観していたのかと思うと逆にすごいことだと感じました。

終盤には徳川家康の本隊30000万もの大軍勢が目の目に押し寄せてきているのを1500ほどしかいない自軍と共にどんな気持ちで義弘は眺めていたのでしょうか?

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6・開戦地

この辺りで井伊直政松平忠吉の部隊が宇喜多隊に発砲して戦いの火ぶたが切られたと解説にはありますが、目の前に実際にあるのは小西行長の陣跡で、宇喜多秀家の陣跡は南西の少し離れたところのあるので、これはどういうことなんだろうと思いました。

宇喜多隊は西軍最大の17000という大部隊だったということなので、小西隊の前まで展開していたということでしょうか?

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7・小西行長陣跡

開戦地の奥が小西行長の陣跡です。

大河ドラマや小説などでは豊臣秀吉朝鮮出兵をやめさせようと悩み、奔走する姿が描かれることが多く、いいイメージがありますが、関ヶ原の戦いはどういう思いで西軍に参加したんでしょうか?

島津や小早川のように傍観している武将が多い中、西軍の中では大いに奮戦したようですが。

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8・南天満山・宇喜多秀家陣跡

道を間違えてちょっと迂回してしまったために少し離れている印象を持ってしまいました。

天満宮の神社の境内に陣跡があって、徒歩でないと入っていけません。

天満宮の境内に陣を置いたのは偶然だったのでしょうか?それとも愛する妻の豪姫の実家が菅原道真公の子孫を自称する前田家だからそれを意識してのことだろうかなどと考えてしまいました。

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9・藤古川ダム

ここでハプニング発生です。

ダムに架かる橋を渡れば(徒歩でのみ通行可)最短距離で平塚為広碑に行けるはずが、ハチの巣があって危険なために通行止めになっているとのことで、いったん戻って大きく迂回する羽目になりました。

やはり、この時期はスズメバチアシナガバチの巣が最大の大きさになる時期なので、山城や古戦場など自然が多く残っているところに出かけるときは注意が必要です。

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10・平塚為広碑

大きく迂回して交通量の多い国道21号を歩いてたどり着きました。

昔、平塚為広を主人公に、竹中半兵衛大谷吉継との友情を描いた「義槍鬼九郎」(朝霧圭梧)という小説を読んで感動した記憶があって、メジャーではありませんが平塚為広にはちょっとした思い入れがあるのでここにはぜひ来てみたかったです。

 

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11・大谷吉継・湯淺五助墓

草も刈られていてよく整備された道ですが、舗装もされておらず、徒歩で行く以外に方法はない山道を登って行った先にありました。

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地元の方々に大切にされているのがよくわかるきれいなお墓で、供えられたばかりと思われる花もありました。

戦前に建てられた顕彰碑もあり、大谷吉隆と刻まれてありますが、そう名乗っていたという説があったとのことですが、今では否定されているようです。

湯淺五助のエピソードは知らなかったのですが、五助の忠義の気持ちもですけど、五助との約束を守って、頑として家康に首が埋まっている場所を教えなかったという敵将の藤堂高刑にも感動しました。

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12・大谷吉継陣跡

墓から再び山道を歩くこと5分、大谷吉継の陣跡が見えてきます。

吉継は裏切りる可能性のある小早川秀秋ににらみを利かせるためにこの場所に陣を張ったとのことですが、今では木が鬱蒼と生えていて、ここから松尾山を見ることはできません。

しかし、陣跡から少し歩いたところに松尾山を眺望できるポイントがあって、そこからは山頂の小早川の幟旗がよく見えました。

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13・若宮八幡神社

車で来て大谷吉継の陣跡やお墓だけ見たい方はこの神社の駐車場に車を停めていくのが便利です。

国道21号から旧中山道にヒョイと入ってすぐのところにあります。

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15・西首塚

蜂の巣のせいで大きく迂回したり山道を登ったり下りたりしたのでへとへとになりながらも最後の目的地に到着。

大型トラックがバンバン通る国道21号の道沿いにひっそりとたたずんでいました。

こちらも当時この辺りを支配していた竹中重門によって造られました。

前回訪れた東首塚は風化してしまったとのことですが、こちらは今でも残っているそうです。

解説板によると明治時代に付近を工事をした時には夥しい数の人骨が出てきたとのことです。

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まとめ

西軍武将の陣跡を中心にまわったモデルコースの西軍大好きコースはすごくよかったです。

実際にその場所に行ってみて初めて味方や敵との距離感を実感できて、思っていたよりずいぶん近い距離で東西の軍勢が対峙していたのだと感じました。

特に島津軍は、わずか1500ほどの軍勢ですぐ目の前と言っていいほどの距離にいる30000人の徳川家康の本陣に向けて突撃していったのだと思うと、無謀としか思えませんでした。

 

実際、鹿児島まで生きてたどり着けたのはわずか80人ほどだったということです。

後に明治維新で薩摩が天下を取ったときもこの精神がその時まで受け継がれていて、太平洋戦争までつながったのかと、関係ないかもしれませんが、ふとそんなことまで考えてしまいました。

 

6キロほどの行程のはずが、大きく迂回したせいもあって万歩計を見ると20000歩10キロ以上歩いていましたが、電柱に豆知識やクイズが書いてあったり、旧中山道には不破の関守跡など、壬申の乱関係の史跡もあったりといい経験でした。

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ほかにもいくつもモデルコースがあるのでまた別のテーマで来てみたいと思いました。

信長を殺した男~本能寺の変431年目の真実~4 (漫画)藤堂裕 (原案)明智憲三郎 秋田書店

山崎の戦で明智光秀に勝利し、天下を統一した豊臣秀吉が自分に都合がいいように改ざんしてしまった本能寺の変の真実に迫る物語の第4巻です。

信長を殺した男~本能寺の変 431年目の真実~ 4 (ヤングチャンピオン・コミックス)

あらすじ

土佐を拠点にした戦国武将の長曾我部元親の四国統一を容認していたはずの織田信長が突如方針を転換し、讃岐、阿波を拠点にしている三好一族との四国分割統治を命令し、長曾我部元親と太いパイプを持つ明智光秀を困惑させる。

 

一方、羽柴秀吉は三好一族に親族を送り込み光秀失脚の策略を着々と進める。

 

さらに、信長は天下統一を目前に唐入りの計画の準備を開始し、新たな戦に反対する光秀と対立してしまう。

 

蜜月の関係だった信長と光秀の間に暗雲が立ち込め始める。

感想

日本の天下統一とその後の唐入りというおのれの覇道に突き進もうとする織田信長と、信長こそ戦乱の世を天下泰平に導く麒麟だと信じて仕えてきた明智光秀との間にすれ違いが生じ始め、それに付け込んで、おのれの野望を果たさんとする羽柴秀吉の構図がいよいよ鮮明になってきました。

 

そこへ細川藤孝、長曾我部元親、斎藤利三など本能寺の変に絡む重要人物たちのそれぞれの思惑が絡み、ますます複雑になってきました。

 

次巻の予告によると、この中についに三英傑の最後の一人である徳川家康も加わって、本能寺の変に絡む重要人物はすべてそろい踏みとなるようです。

 

いよいよ終盤に向けて本能寺の変の真実の全貌が明らかになってくるのでしょうか?

 

ますます楽しみになってきました。

 

 

信長を殺した男~本能寺の変431年目の真実~3 (漫画)藤堂裕 (原案)明智憲三郎 秋田書店

戦国時代の勝者豊臣秀吉によって改ざんされた本能寺の変の真実に迫る物語の3巻です。

信長を殺した男~本能寺の変 431年目の真実~ 3 (ヤングチャンピオン・コミックス)

3巻では柴田勝家率いる北陸方面軍が上杉謙信に惨敗した手取川の戦いや徳川家康正室の築山殿が武田方に内通した疑いで殺され、嫡男の信康が自害させられた築山・信康事件、荒木村重が裏切って有岡城の籠城した有岡城籠城戦など1577年~1579年にかけての出来事が語られています。

 

これらが1582年の本能寺の変との伏線なのか、どのようにつながっていくのかますます注目です。

 

この3巻で印象的だったのは羽柴秀吉の腹黒い本性を明智光秀に対してついに剝き出しにしたところです。

 

今まで小説やドラマで、明るくて誠実な秀吉をさんざん見てきて、それに慣れ切っているので、ちょっとこの極悪人秀吉には拒否反応を起こしてしまいます。

 

この物語で描かれている秀吉はどす黒い内面を持ち、織田信長が泰平の世に現れる麒麟に例えられているのとは対照的に、貪欲に世界を喰らい尽くす凶神獣の饕餮(とうてつ)に例えられています。

 

ちなみに饕餮は、大ベストセラーの中華ファンタジー小説十二国記」(小野不由美)では、麒麟が使役する強力なしもべとして登場し、麒麟が死ぬとその死骸を食べてしまうといわれています。

 

まさに信長が広げた版図を彼の死後に織田家ごと奪ってしまった秀吉にぴったりな例えだと感じました。

 

清廉潔白で誠実に信長に仕える明智光秀と、出世のためなら手段を択ばず、残虐なことも平気で行う秀吉。

 

この対照的な二人がついに信長の面前で言い争うほど険悪な仲なってしまいます。

 

秀吉と光秀が戦った山崎の戦に勝利した秀吉が、どうゆう手段を用いて光秀を追い落とし、逆賊に仕立て上げたのか、それがどのように描かれるのかますます気になってきました。

 

 

 

 

JR関ヶ原駅周辺を散策

岐阜関ケ原古戦場記念館を堪能した後にJR関ヶ原駅まで戻る10分ほどの行程にも合戦ゆかりのポイントがいくつかあったので行ってみました。

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岐阜関ケ原古戦場記念館

まず、古戦場記念館の裏手、すぐ西側は陣場野公園といって、徳川家康が最後の陣を置いた場所です。

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家康は合戦勝利の後この場所でに東軍の武将たちの引見を受けたり、討ち取られた敵の武将たちの首実検を行ったそうです。

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家康が床几を置いて座った場所には今は石碑が建てられています。

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かなり昔に観たのでなんのドラマかもう忘れましたが、印象に残っているシーンがあって、それはこの場所で家康が東軍諸将たちの引見を受けている最中に、西軍を裏切って東軍の勝利に貢献した小早川秀秋が訪れて、大勝利に導いた功労者のはずがその場にいた武将たちから白い目で見られて小さく縮こまってしまうというシーンを思い出しました。

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ここから駅に向かって5分も歩かないところには東首塚があります。

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こちらは、当時この地の領主だった竹中半兵衛の息子の重門が家康の命を受けて敵味方関係なく犠牲者の遺体を埋葬したところです。

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今は立派なお堂や解説板がありますが、首塚そのものは風化してしまったものか、現存していないそうです。

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こことは別のところには西首塚もあるようですが、少し離れているので今回はいきませんでした。

 

この辺りは駅から古戦場記念館へ向かう人の気持ちを盛り上げるための演出なのか、家紋の入った幟旗や看板があちこちにありました。

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JR関ヶ原駅へ戻るまでの歩道には関ヶ原の戦いを時系列で解説した板が設置されていてとても勉強になります。

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また、古戦場を散策するための武将別モデルコースも書かれていて、今度来た時にはぜひめぐってみたいと思いました。

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本当は、古戦場記念館を堪能した後は関ヶ原の最北端にある笹尾山の石田三成が陣を置いた場所まで行ってみようと思っていたのですが、僕が住む愛知県一宮市は快晴だったのに、ここ関ヶ原町は時々雨が降るあいにくの天気で、傘を持ってきていなかったので、駅周辺だけにしておきました。

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関ヶ原町のあるあたりは伊吹山鈴鹿山脈のちょうど切れ目に位置していて、だから古代から関所が置かれるほど東西を結ぶ重要な交通路になっていたのですが、冬は日本海からの季節風や雪雲がこの切れ目に流れ込んできて結構雪が積もるので冬に訪れる時は注意が必要です。

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僕が訪れたこの日も、まだ秋だと思って油断していたのですが、西高東低の冬型の気圧配置で、太平洋側は晴れているのに日本海側は雨が降っていました。

 

そのため関ケ原町もパッと晴れたかと思うと急に暗くなって雨が降り出したりとかなり不安定な天気でした。

 

僕は北陸地方で生まれ育った人間なので、日本海側はこれから11月から3月くらいまでは毎日どんよりとした低い雲が立ち込めて雨や雪ばかりの日が続くの知っているのですが、関ヶ原町の辺りもこの影響を受けるので、これから冬に訪れるときには注意してください。

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いずれにしても本格的な冬が到来する前にまた訪れて散策したいと思いました。

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信長を殺した男~本能寺の変431年目の真実~2(漫画)藤堂裕 (原案)明智憲三郎 秋田書店

明智光秀の生涯を描いた、本能寺の変の真実の物語の第2巻です。

信長を殺した男~本能寺の変 431年目の真実~ 2 (ヤングチャンピオン・コミックス)

この巻では武田信玄徳川家康を三方ヶ原で破る1572年から、本能寺の変の11ヶ月前の1581年7月あたりまでを描き、途中で光秀の妻煕子の回想という形で明智光秀の謎に包まれた前半生が語られます。

 

大坂本願寺一向宗雑賀衆との血みどろの戦いや、室町幕府最後の将軍足利義昭を京都から追放する槙島城の戦い、安土城の築城から完成といった織田信長の天下統一事業が着々進展し、その間、光秀は妻への約束である天下泰平の世を築くために信長をよく支え、信長のほうも秀吉がひそかに嫉妬するほど光秀への信頼はますます厚くなっていきます。

 

光秀が赤痢にかかり生死の境をさまよった時には信長は動揺して取り乱し、赤痢に効果のあるものを必死に集めさせて坂本城に届けさせませした。

 

それほどの信頼関係と絆で結ばれた二人がどうして袂を分かち、本能寺の変につながっていくのか、真実がどう描かれるのか気になるところです。

 

この2巻では光秀の前半生が描かれていますが、それは昨年の大河ドラマ麒麟がくる」の前半で描かれたものとはかなり違っていて興味深いです。

 

明智光秀の前半生については記録もほとんど残っておらず謎に包まれているので諸説あるのでしょうが、ドラマとは真逆のストーリーでした。

 

また、光秀とその妻煕子の馴初めから死別までが煕子の回想という形で哀惜を込めて語られていてほろりと泣けました。

 

蜜月の明智光秀織田信長がこの後どのようにすれ違い本能寺の悲劇につながっていくのか気になるところです。

 

 

岐阜関ケ原古戦場記念館を訪問

関ケ原の合戦があった日である慶長5年9月15日を西暦になおすと、西暦1600年10月21日だということで、ちょうど一年前のこの日にオープンしたばかりの岐阜関ケ原古戦場記念館に初めて行ってきました。

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岐阜関ケ原古戦場記念館

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JR関ヶ原駅から歩いて10分、車なら関ヶ原ICから5分です。

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JR関ヶ原駅



開館時間は9時30分から17時で、毎週月曜日が休館日となっています。

 

入館は事前予約制となっていて、ホームページから予約することができます。

 

入場料は一般500円、大学生・高校生は300円、中学生以下は無料です。

 

ただし、企画展などがあった際は特別料金となっていて、実際、僕が訪れたときは企画展「竹中半兵衛と重門」が開催されていて、入館料は800円でした。

ただし、立派なパンフレットももらえてうれしかったです。

 

記念館はまだオープンしてから1年しかたっていないということもあって外観もきれいで、関ヶ原で戦った武将たちの家紋が染められた幟がズラッと並んで風にはためいている景色は壮観です。

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武将たちの家紋が染められた幟旗



建物の中に入るとスタッフの方が出迎えてくれ、予約のあるなしの確認や館内の説明などを親切丁寧にしてくれました。

エントランス

入口正面左手には大河ドラマ真田丸」の題字を書いた左官の方が制作した作品が飾られていました。

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この作品は徳川家康が最後に陣を置いた場所の土と、石田三成が陣を置いた笹尾山の土を使った土壁だそうで、400年以上前に両軍の兵士たちの血や怨念を吸っているかもしれない土を使って作ってあるというのが何ともロマンを感じます。

 

また、エントランスには企画展の特別展示なのか、豊臣秀吉竹中半兵衛黒田官兵衛の甲冑が展示されていました。

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豊臣秀吉竹中半兵衛黒田官兵衛の甲冑



また、その横には小早川秀秋の甲冑もありました。

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小早川秀秋の甲冑



ネットで予約した時間に集合して入り口から導入回廊の中に入るとそこはもう、最新の技術を駆使したエンターテインメント空間となっていて、博物館ではなく、まるでテーマパークのアトラクションを体験しているかのようでした。

導入回廊

最初に入る導入回廊ではプロジェクションマッピングを駆使した演出がしてあって、戦国時代の始まりから関ヶ原の戦いに至るまでの物語を見ることができます。

 

戦国時代に起こった出来事と年表が現れたり、足軽が槍を持って行進していく場面や武将たちがシルエットで現れて、時代が移っていく様子を見ることができます。

 

グランドビジョンの準備ができるまで同じ時間に予約した人たちは椅子に座ってその映像を眺めているのですが、まるで、小説や映画のプロローグを見ているようで、その先のグラウンド・ビジョンではいよいよ関ケ原の戦いが始まるんだという気持ちを高めてくれるいい演出でよかったです。

グラウンド・ビジョン

グラウンド・ビジョンに入ると床面に巨大なスクリーンがあって、そこに映し出された日本地図を見下ろしながら全国の大名たちが関ヶ原に集結し、合戦に至るまでの動きを見ることができます。

 

東西両陣営の動きを俯瞰してドキュメンタリータッチでみることができるのに加えて、ナレーションが、チケットがなかなか取れないほどの人気講談師の神田伯山によるもので、講談調の解説が子気味良くて耳に心地いいです。

 

映像も立体的で色も美しく、しかも見やすくわかりやすくて、これだけ見に何度でも来たくなりそうです。

 

8分ほどの映像をグラウンド・ビジョンで見た後はいよいよシアターに移って関ケ原の合戦が開始されてから決着がつくまでの映像を見ることができます。

シアター

小ぶりのシネマ劇場ですが、ドルビー音響による音楽と、刀や槍、兵士たちが激突して戦う音の迫力はすさまじく、大軍勢が激突する瞬間を上空から眺めていたかと思うと戦場の真っただ中に降り立って、ぶつかり合い斬りあう兵士たちの足元から見上げてみたりと次々に視点が変わってめまいがするほどのすごい映像でした。

 

しかも、映像に合わせて座席が揺れたり、風が吹いてきたりとまさにアトラクションに乗っているような演出まであって、体や心臓が弱い人にはちょっと注意が必要なほどのリアリティあるものでした。

 

この9分間の素晴らしい体験が終わると2階に上がってやっと博物館本来の展示室に入ります。

展示室

展示室では関ケ原の戦いに参加した武将たちの甲冑や書状、合戦図屛風などが展示してあって、合戦についてより深く学ぶことができます。

 

展示室のガラスケースの中に徳川家康石田三成のほか、黒田長政福島正則大谷吉継小早川秀秋といった武将たちの甲冑や肖像画がズラッと並んでいる光景はなかなか見ごたえがあります。

 

また、同じ二階には撮影可能な体験コーナーがあって、槍や刀、火縄銃を実際に手に取ることができたり、陣太鼓や陣鐘を鳴らしてみることもできます。

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大鉄砲

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僕が訪れた時には人気漫画の「センゴク権兵衛」の作者の宮下英樹さんの作画展もやっていました。

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展望室

2階の展示室を見た後はエレベーターで5階の展望室に上がりました。

 

展望室からは関ヶ原を360度眺めることができます。

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展望室



ところどころ、山の上に幟旗がはためいているのが見えるところもあって、解説板を見ながら、どこが誰の陣の跡かを確認することができます。

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特に黒田長政竹中重門が陣を張ったところは近いので、肉眼でもはっきり見えました。

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ちなみに岐阜関ケ原古戦場記念館が建っている場所は、徳川家康が戦いの終盤に最後に陣を張った場所だそうです。

 

最新の技術を駆使した映像や演出は素晴らしく、何度でも見たくなるし、特別展などの企画も行われるようなので、繰り返し訪れてみたくなる場所だと感じました。

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前田利家 戸部新十郎 光文社文庫

戦国武将、前田利家の生涯を描いた長編小説です。

前田利家(上) (光文社文庫)

前田利家(下) (光文社文庫)

作者は前田利家とは縁の深い石川県七尾市出身の作家、戸部新十郎です。

 

僕も石川県出身ということもあり、前田利家は戦国武将の中でも一番好きなので、前田利家を主人公にした小説は今までにもいくつか読んできたのですが、この作品が一番いいと思いました。

 

今まで読んだ作品の中には、細かいんだけれどもまるで歴史の教科書に出てくる年表のように利家の事績を追っているだけにしか見えないような、小説じゃなくて役所の記録文書か!と突っ込みたくなるような作品や、タイトルが前田利家なのに、読んでみたら織田信長豊臣秀吉のことばかり書かれていて主人公のはずの前田利家があまり出てこないという詐欺まがいの作品もあり、あまり満足できませんでした。

 

しかし、この作品は利家と、彼と深いかかわりがあった武将たち、織田信長豊臣秀吉徳川家康柴田勝家佐々成政などの重要人物との関係や有名なエピソードもしっかり描かれていたし、妻のまつとの会話やエピソードもちゃんと描かれていて、やっと満足ができる作品に出会えたと思いました。

 

この作品で特徴的なのが、物語がまだ二割ほどのところで本能寺の変が起こり信長が死んでしまうことです。

 

今まで読んだ利家の生涯を描いた作品ではどれも本能寺の変を境に前半と後半に分かれているものが多いのですが、この作品では信長の死後に前田利家が加賀100万石の礎を築いていく過程に多くのページを割いています。

 

特に賤ケ岳の戦いや、能登の支配を盤石にした石動山の焼き討ち、秀吉に味方したことで佐々成政を倒して越中の領土が利家に与えられる経過を丁寧に描いています。

 

作者が能登半島七尾市の出身ということもあり、特に思い入れが強かったのかもしれません。

 

僕も前田利家に関しては特に関心があるので、これからも書籍を読んだりゆかりの地を巡ったりして追っていきたいと思います。